“後発”韓国の猛追

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 ■政府利用して何が悪い

 「韓国の国内市場は限られている。米国に行きたいと思うのは自然でしょう」

 シリコンバレーの中心部、サンノゼにある韓国の起業家育成・支援施設「KIICAシリコンバレー」で、「オンネットUSA」の最高経営責任者(CEO)、金庚萬(34)は米国進出の経緯を話しだした。オンネットの主力商品はオンライン・ゴルフ・ゲームである。米小売りチェーン最大手のウォルマートでも扱われるなど好調だ。

 「米国に行くと決めたらすぐに政府に聞いた。『どうすればいいか?』と」

 シリコンバレーは「産業政策」の彼方にある。大学や研究所の技術と着想、巨額のベンチャー資金が化学反応し合い、民間企業が生まれては消え、無数の失敗の中から成功が生まれる。一貫しているのは徹底した優勝劣敗の原則である。

 そのシリコンバレーへの進出に際し、金は迷うことなく政府の手を借りたというのだ。そこには、中国、インド、台湾勢が席巻するシリコンバレーに“遅れて来た”新興勢力、韓国勢の特徴がうかがえそうだ。

 金は1996年8月、韓国・中央大の先輩たちと3人で、「オンネット」を立ち上げた。会社は急激な成功を収め、インターネットのブロードバンド化を国策とする韓国の時流にも乗って、99年には同国政府が選ぶ「ベンチャー企業トップ100」にも選ばれた。

 「オンネット」は零細スタートアップ(新興企業)ではなく、実力を持った中堅企業として、2005年に、満を持してシリコンバレーに進出したといえる。

 それはしかし、必ずしもシリコンバレーでの優位を意味しない。バレーで重要なのは規模よりスピード、変化への柔軟さだからだ。

 実際、金には、米国でのビジネスにそう向いているとも思えない部分がある。英語は「学校教育で学んだだけ」で、米国での会社設立までは渡米経験すらなかった。当然、米ビジネスの仕組みにも通じておらず、銀行口座の仕組みや小切手の切り方も知らなかった。

 「僕が米国で会社を経営していると言うと、韓国人は決まって3つ質問する。米国生まれか、留学していたか、米国で働いた経験があるか。答えは全部ノーだ」

 だからこそと金は苦笑しつつ、「政府が支援してくれるなら、それを利用してどこが悪いのか」と語る。

 00年4月に開設されたKIICAシリコンバレーには現在、32社が事務所を構える。毎年10社前後が入れ替わり、成功も失敗もあるものの、ナスダック上場企業2社を送り出している。

 単純な比較はできないにしても、同じ時期に日本貿易振興機構(JETRO)が開いた同種の施設からはまだ、米株式市場への上場企業が現れていないことを考えると、かなりの成果だといっていい。

 所長を務める李鍾薫(51)は米国、アジアで世界的なコンピューター会社、ヒューレット・パッカードに勤務した経験を持つ民間組。04年には在米韓国商工会議所が選ぶ「今年のハイテク・ビジネスマン」にも選ばれたことがある。

 「ここではみんながゼロからヨーイドンで走り出すわけではない。米国人だけではなく、すでに膨大なネットワークを築いている中国、インド、台湾などと、韓国とではスタートラインが違う。最初は政府の手助けが必要だ」と力説する。

 そんな韓国方式がいつもうまくいくとは限らない点は、李も認める。民間から李が登用されたこと自体、「官主導」が行き詰まったからだ。そうはいっても、やはり政府の役割は極めて大きいと李は考えている。

 「韓国ではまだ、一番優秀な人間は政府に集まる。彼らは本当によく働く」

 「IT839戦略」なる韓国政府のIT産業振興計画がある。「感動ものだ」と李は言う。「内容が当を得ているかどうかは分からない。だが、予想などできないITの未来について、知恵を絞って見取り図を描こうとする心意気がすばらしい」と思うからである。

 シリコンバレーでコンサルティング会社を経営する傍ら、IT関連のブログを運営し、各国の事情にも詳しい徳田浩司も隣人の奮闘ぶりに注目するひとりだ。

 「韓国は明らかに、国策としてエリートを海外に送り出そうと考えている。シリコンバレーを試験台にして、国としての競争力を強化する、という戦略だ」

 ただし、そんな韓国流への批判もむろん、ある。=敬称略

 (シリコンバレー 松尾理也)

 【伝説の地を訪ねて】

 ■夢を探った“自家醸造” 「リンゴ」もガレージ発

 1975年、「ホームブリュー(自家醸造)コンピューター・クラブ」という風変わりな名前の集まりがシリコンバレーで組織された。当時、まだ夢に過ぎなかった「個人用コンピューター」という概念をめぐり議論と実験を繰り返していたクラブのメンバーに、後のアップル・コンピュータ(現アップル)の創業者スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックのふたりがいた。

 ふたりは間もなく、実際に個人用コンピューターを開発して、売り出すことになる。その最初の工場となったのが、ロス・アルトス市にあるジョブズの実家のガレージだった。

 iPodの成功などで今、何度目かの絶頂にあるアップルもまた、伝説的な「ガレージ発」の企業だったのである。

【用語解説】IT839戦略

 IT(情報技術)分野での韓国の存在感を一段と強化しようと、韓国情報通信部が2004年に策定した中長期の国家情報通信政策。広域無線LANなど8つの新規サービス、ブロードバンド統合網(BcN)など3つの社会基盤(インフラ)、知能型ロボットなど9つの「成長のための原動力」を規定し、集中的な産業育成を目指す。IT業界の目まぐるしい変化に対応して、06年には修正計画が発表された。

「オンネット」の社員たち。座っているのがCEOの金庚萬

「オンネット」の社員たち。座っているのがCEOの金庚萬

KIICAシリコンバレー所長の李鍾薫。背景は、入所する韓国系ベンチャー企業名の掲示板

KIICAシリコンバレー所長の李鍾薫。背景は、入所する韓国系ベンチャー企業名の掲示板

アップル社創業者のスティーブ・ジョブズの実家。左のガレージが創業場所

アップル社創業者のスティーブ・ジョブズの実家。左のガレージが創業場所

Posted by Takumi

2007/05/22 09:43 2007/05/22 09:43
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 「シリコンバレー」という名前は1971年に生まれた。ジャーナリストのドン・ホフラー(1922~86)がある業界紙で使ったのが始まりだったという。

 邱俊邦(65)がシリコンバレーにやってきたのも71年だった。「そのころ、ここらあたりは一面の果樹園だったよ」。今やハイテク企業のオフィスが立ち並ぶバレーの一角で、邱は懐かしそうに語った。

 60年に早稲田大理工学部に入学した邱は渡米し、オレゴン州立大で半導体研究へと進み、シリコンバレーにたどり着いた。68年にはインテルが創業しており、時代は半導体産業の隆盛に向かって突き進んでいた。

 邱は日本の計算機メーカーなどの勤務を経て、80年に会社を創業した。その半導体メーカー、IDTは急成長し、84年に株式上場に成功。88年にIDTを退職した後に起こした別の半導体企業をも株式上場に導いて、巨額の利益を得た。自己資金を基にスタートアップ(新興企業)に投資する「エンゼル」として、今も現役であり続けている。

 バレーの半導体史の生き証人のような邱は、台湾勢の強さの秘密をこう語る。

 「私が来たころは台湾に自由はなかった。台湾人はここで成功するほかなかった。それが、一番の理由だと思う」。台湾が自由と繁栄を手にするにつれ、バレーでの台湾の存在感は薄れてきているとも指摘した。

 だが、当時、背水の陣で米国に渡ってきた移民たちはほかにもいた。台湾人が特に目覚ましい成功を収めた理由が何かあるはずだ。自分自身を客観的に分析するのは難しいのだろう。邱は答えあぐねた後に、「そうだ」と、ひざを打って言った。「小里さんは台湾生まれだから、台湾人みたいな考え方をする。彼に台湾と日本の違いを聞いてみたら、面白いかもしれない」

 小里文宏(47)。シリコンバレーの日本人ハイテク企業経営者としてはただひとり、米ナスダック市場への株式上場にこぎ着け、現地日本人社会では一種、伝説的な人物である。

 小里が率いるビデオチップメーカー、テックウェルで会った御当人はしかし、「いやいや僕は完全な日本人。日本が好きだし、いずれ日本に帰ろうと思っている」と笑って手を振った。

 カリフォルニア大サンタバーバラ校に入学して数学科を卒業したことについても、「おやじに言われたので。で、米国で就職しようと思ったら、帰ってこいとおやじに言われて、はいはい、と。ほとんどいいなりだった」といった調子だ。

 訥々(とつとつ)としたその語り口も相まって、拍子抜けするほどの飾り気のなさなのだ。

 帰国した小里は、日本の電機メーカー駐在員となって、90年代初頭にシリコンバレーに飛び込み、半導体委託生産の受注を目指して得意先開拓に明け暮れた。

 工場を持たない研究・開発専門の小規模半導体企業を「ファブレス」といい、当時、その業界は台湾系の独壇場だった。中国語を操る小里が台湾系の社会にどっぷりと漬かっていったのは自然の成り行きだった。

 シリコンバレーのベンチャービジネスには、飛び抜けた技術が必要だと思われがちである。だが、小里は「私は技術屋ではない」と断ったうえで、「自分の発明とか技術ではなく、こういったものがほしいというアイデアの実現に向け相棒を探す。起業というのはそういうチームを作る作業なんだ」と説明する。その過程で台湾独特の起業の下地を感じた、と小里は言う。

 「いろいろ相談にいく。すると、面白そうな案件には、台湾人はすぐ『一枚かませろ』と言ってくる」。もうけに対する貪欲(どんよく)さの表れであり、それが結局、人助けにもつながっている。

 「日本は逆。うまくいきだすと結構、嫌われたりする」と、小里は苦笑した。

 「シリコンバレーには挑戦をよしとする気風があるなどと言うけれど、実際には外国人がコネもなしに来て何かを始めるのは非常に難しい。中国人、インド人などはまず出身地の社会を頼る。だからうまくいく」

 日本人ながら、台湾系社会のネットワークを最大のテコにのし上がった小里は起業を可能にするメカニズムを、こう分析している。

 日本で学び、日本人と共同で事業を行う機会も数多くあった邱はしかし、起業パートナーに日本人を選んだことはない。「日本人はものすごく自分の会社を大切にする。台湾人は自分のために働くのが好きだ」

 この点で、小里は日本的な部分を残してはいる。転職を繰り返してきたとはいえ、やはり自分の会社には執着がある。成功すると未練なく過去と縁を切り、新しい道に進んできた邱とは、どこか肌合いが違う。

 「やはり僕は日本人」。そう言って笑う小里の車のナンバーはナスダックでのテックウェルの略語、「TWLL」となっていた。

 日本から近くて遠い島、台湾。そこからの頭脳移民たちの物語は次回も続く。

 =敬称略

 (シリコンバレー 松尾理也)

Posted by Takumi

2007/05/01 10:07 2007/05/01 10:07
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